月刊総合雑誌02年7月号拾い読み (02年6月22日・記)
瀋陽総領事館事件(5月8日)から約1ヵ月後の6月初旬、月刊総合雑誌7月号が発売されました。事件後、それほど編集時間に恵まれたわけではありません。しかし各誌とも、事件関連に相当に頁数を費やしています。特に、『諸君!』(「総力特集 瀋陽事件」)、『ボイス』(「緊急特集 瀋陽事件の屈辱」)、『中央公論』(「特集『外務省』という不幸」)の3誌が力を入れて取り組んでいました。
まず、『諸君!』の特集をみてみましょう。
巻頭での西村眞吾・衆議院議員との対談「今こそ興起せよ、大和魂」で、石原慎太郎・東京都知事は、「こんなテイタラクで、主権国家と言えるか」と憤慨しています。西村は、国家再生のため「靖国神社参拝」と「大和魂」の復権を主唱します。
中西輝政・京都大学教授「『国家主権』の喪失」は、石原・西村と同様に主権の問題から説き始めています。それも、「日本はまさしく『レイプ』されたのである」と強烈な1行で始まります。さらに、事件には「主権問題」と「人道問題」の両方が絡んでいるのであり、「人道問題」の見地から早々に国際機関の介入を求めるべきだったと展開します。それを怠ったのは、チャイナ・スクール的な中国への遠慮があったと論難します。
同じ特集内の座談会「醜い『中華帝国』の素顔」(中嶋嶺雄・国際社会学者、田久保忠衛・杏林大学教授ほか)も、チャイナ・スクールの存在、その対応を糾弾します。田久保は、「根絶せよ」と強硬です。
チャイナ・スクールとは、中嶋嶺雄「名も恥もない日本外交」『ボイス』によりますと、第一義的には、外務省アジア局中国課を中心とし、対中国政策を決定するピラミッド構造をもった親中派外交官たちのグループのことです。先の中西論文によりますと、彼らは「内通者」的役割しか担っていない、その背後には、与野党の別なく存在する親中派政治家・マスコミがいる、その総体が日中間を歪めている、ということです。
彼らが、中嶋の座談会での発言によりますと、「長年の日中癒着の構造」をもたらしてしまったのです。だからこそ、瀋陽事件への対応が不明確、主権を侵害されたままで終始する、ということになる、と言うのです。
櫻井よしこ・ジャーナリスト「外務省チャイナスクールの罪業」『文藝春秋』も、李登輝前台湾総統ビザ発給問題・天皇訪中などを例に、国益よりも外務省益、さらにはチャイナ・スクール益が優先されていると詳述しています。
中嶋の『ボイス』論文の結論は、チャイナ・スクール的外交から脱するには、外務省を解体する以外にない、と厳しいものです。
佐々淳行・元内閣安全保障室長「中国にNO!と言えない日本」『文藝春秋』もチャイナ・スクールを問題にしています。そのうえで、危機管理の専門家として、「外務省は正確な第一報をトップに上げなかったのだ。危機管理上最も許されざる行為である」と警鐘を鳴らしています。
以上のタイトルだけでも、各論者たちが中国側・日本外務省の対応に憤慨していることが理解できるでしょう。
『中央公論』に目を移しましょう。
養老孟司は連載「鎌倉傘張り日記Q 人は石垣? 人は城?」で、「あのビデオにみごとに示されたのは外務官僚の無能ではない。現代日本人の心性である」とします。
少しわかりにくいでしょう。養老の文章と山内昌之・東京大学大学院教授「帽子を拾う外交官に日本人の縮図を見た」をあわせ読むと問題の所在を把握できるでしょう。山内は、侵入してきた中国の武装警官の帽子を拾い上げたり、武装警官の隊長と握手した日本外交官の緊張感のなさに、戦後日本の欠陥の縮図を読み取ります。国民の利益・権利は国家との関係にいかに位置付けられるかとの基本的命題がなおざりされてきたのです。教育や躾を通して自然に、健全な愛国心・責任感を培うことを怠ってきたのです。当事者たちと同種の問題を国民全体が抱えているのです。帽子を拾い上げた外交官そのものが、「鏡に映った自分」なのです。
外務官僚はエリート集団です。われわれと同種の問題を抱えているだけではなさそうです。岸田秀・和光大学教授「戦後日本を象徴する自閉的共同体」によれば、まさしくエリート特有の問題もあるのです。近代日本の官僚組織はエリート集団になった途端に、身内の利害のみを優先する自閉的共同体に変質するのです。しかも外務省の場合、戦後、アメリカに追随していればよかったのであり、本来の目的の外交そのものが存在しなかったのです。これでは、不祥事は当然のように招いてしまいます。
外務省は無用の長物というわけです。国家として、難民にいかに対処するかなどの政策課題を放置したまま、外務省がただただ存続してきています。宮崎哲弥・評論家+官僚研究会「難民問題先送りの代償」の表現を借用すると、外務省は「内陸国の海軍省」なのです。にもかかわらず、大使になれば、偉いのです。「閣下」と呼ばれるのです。
「閣下」たるゆえん、エリートたるゆえん、なぜ彼らが官僚の中でもとりわけ特権意識を持ちうるのかは、的場順三・元大蔵省主計局次長「『大使』閣下の優雅な生活」『諸君!』が解明してくれます。現憲法下でも天皇の国事行為の中に外交的職務があります。その職務は、外務官僚が天皇に成り代わって独占的に行なうのだという意識が濃厚に今日にいたるまで残存しているのであり、エリート意識につながり、「閣下」となるのです。しかも、大使たちは日本で1番高い給与をもらっている国家公務員です。彼らの給与は、月給300万円を超えることもあり(しかも、そのうち150万円は無税)、総理大臣の月給を悠々上回ります。さらには配偶者にまで手当てが支給されます。大使経験者なら、東京の一等地に豪邸を建てることも可能となります。さらには機密費があります。一方、インド洋に派遣された海上自衛隊員への支給された手当ては月額4万円程度しかないのです。
歪んでいる、としか表現できません。話は前後しますが、岸田も、中嶋と同様、「自閉的集団になってしまった集団は、自浄能力を致命的に欠いているので、いったん解体し、新たに出直す以外にどうしようもない」と提言しています。的場が記した数字を目にするや、岸田・中嶋に大きく賛成したくなります。
カレル・ヴァン・ウォルフレン・アムステル大学教授は、日本システムを無責任の体系として、その欠陥を糾弾し続けてきています。彼の「主権国家に立ち戻るための好機とせよ」『中央公論』は、官僚だけを表層的に責めても無意味だとします。日本はアメリカの保護国のままであり、外交官は主体的な判断の権限を与えられていない、瀋陽事件は日本の構造的問題だ、とします。この失態を恥と思うなら国のあり方を根本的に問い直す必要がある、究極的には改憲せざるを得ない、と説いています。
今年は日中国交正常化30周年にあたります。日中双方の各地で各種の記念事業が企画されています。それらに、瀋陽事件は水をさすことになりました。上坂冬子・ノンフィクション作家の「参加するとしても、ごく形式的でいいんじゃないですか」との言に、深田祐介・作家は「私は参加する人とは口をききたくもありませんね」と応じていました(対談「日中『恐喝』30年の終わり」『ボイス』)。この対談のタイトルにあるように、この30年は、日中友好の名のもとに、一方的に中国から恐喝されてきたと感じとる向きもあるのです。
だからこそ、古森義久・産経新聞編集委員は「対中ODAを全廃せよ」『ボイス』で、総額三兆円にも上る「血税」を投入してきたにもかかわらず、結局は無駄であった、対中援助は打ち切るべきだと主張するのです。
『世界』の磯崎由美・毎日新聞記者「問われる『難民鎖国』日本」は、他の論考とは違い、中国を難じてはいません。「メンツ」にこだわる愚を説き、本質的な問題として日本に整合性のある難民政策の確立を求めています。
瀋陽事件は外務省の失態・無能振りを明らかにしただけではありません。日中両国の関係、さらには戦後日本、日本のシステム、国家としての日本、日本人の思考方法…、すべてを再考・再構築しなくてはならないことを明らかにしたのです。
(文中・敬称略)
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