月刊総合雑誌04年6月号拾い読み (04年5月20日・記)
今春のテレビ番組改編での最大の話題は、久米宏の後継に古舘伊知郎が起用され、「ニュースステーション」が「報道ステーション」となったことです。
その古舘の評判が、番組改編から1ヵ月後(5月初旬)に発売となった月刊総合雑誌6月号では、良くありません。キャスター経験のある作家、亀和田武は、「古舘の顔が緊張でこわばり、声のトーンがやや耳障りなほど、りきんでいるように聞こえた」ため、「(視聴者も)動揺してしまい、のんびりニュース」を楽しめなかったとのことです(「古舘伊知郎が脅える『久米の亡霊』」『文藝春秋』)。
『正論』の2篇にはさらに厳しいものがあります。サヨクウオッチャーと称する中宮崇は、「わざとらしい演出と知性のカケラも感じられない」とし、「馬鹿者」とまで酷評しています(「独善と偽善で世論をミスリードするTV報道の害毒」)。さらに産経新聞文化部メディア班による「やっぱりおかしい古舘伊知郎キャスター『妄言録』」は、イラク邦人人質事件の報道ぶりを取り上げ、「反米」と「人質擁護」に極端に偏っていたと斬って捨てています。
イラク邦人人質事件関連では、「戦争の大義の不在がジャーナリズムでよく話題にされるが、実はジャーナリズムの公共性という大義もまたその幻想性を露呈しつつある」との指摘があります(武田徹・東京大学特任教授「戦場で人質となったジャーナリストの幻想」『中央公論』)。古舘や報道ステーションの問題として矮小化することなく、TV、報道全体、ジャーナリズムのあり方を再考すべきときがきています。
イラク関連では、『中央公論』は、先の武田の論考を含め、「改めて問う、日本の自己責任」を特集しています。『文藝春秋』は「日本人人質事件の病巣」と題し、青沼陽一郎・ジャーナリストによる「イラクの中心で愛をさけぶ人達」と江畑謙介・軍事評論家たちによる座談会「自衛隊撤退は誰も望まない」を掲載しています。『世界』の特集は、「『イラク人質事件』から見えてくるもの」です。同誌によれば、詳述するまでもなく、諸悪の根源はアメリカにあり、自衛隊派遣にあるのです。『論座』には、「総力特集 泥沼イラク どうする日本」があります。イラク問題は重要です。ですから、毎々月、取り上げてきました。そのため、他を紹介する余裕を失ってきたようです。今月は、上記4誌の特集を紹介するにとどめおきます。
『中央公論』は「武士道と日露戦争」をも特集しています。開戦から百年ですし、昨今の武士道ブームを視座にすえたものです。20世紀は戦争と革命の世紀だった、その幕開けを告げる情報戦争・広報戦争だった、との山室信一・京都大学教授の分析(「“広報外交”が生かす武士道精神」)には鋭さがあります。
期せずして、『文藝春秋』も開戦百周年企画として「父が子に教える『日露戦争』」を編んでいます。特集タイトルやアプローチの違いが両誌の創刊の経緯や成立ちの相違を伺わせて興深いものがあります。もとより『中央公論』は硬く論を立て問題に迫ろうとします。一方、『文藝春秋』は「『強敵ロシアになぜ勝てたの?』と子供に聞かれたら」とサブタイトルにあるように、平易さを心がけています。同誌は、中西輝政・京都大学教授の「日本が『世界史』に躍り出た日」を巻頭に、読みやすい短い17篇を集録しています。
日本勝利の主因は、『中央公論』『文藝春秋』2誌の特集によれば、武士道です。それをもって文明国たらんとしたのです。
なお、現在は「反戦・平和」を標榜する朝日新聞も戦死を美談として報じ、かつ戦勝気分を過大に煽ったとのことです(長山靖生・評論家「朝日新聞は『戦争報道』で大躍進」『文藝春秋』)。このような報道・思考が、先の『中央公論』の山室も指摘していますが、日比谷焼打ち事件を惹起し、武士道を破滅的な方向に拡散させ、ひいては国の針路を誤らせることに繋がっていったのです。
『中央公論』は、先の2特集に加え、西修・駒澤大学教授による「無改正は世界の非常識だ」を巻頭とし、津田歩・読売新聞記者の「もはやタブーは払拭された」で締める「『世界最古』日本国憲法の疲労度」をも特集として編んでいます。実は、今月号から『中央公論』の編集長が交代しました。あたかも『中央公論』は、読売新聞傘下、改憲勢力の一翼を担うことを決したかのようです。
トヨタ自動車が純利益で日本企業では初めて1兆円の大台に乗せました。同社をトップとして、空洞化が憂慮されていた製造業が活気づいています。このことに、『ボイス』が悦ばしげに焦点をあてています(「特集 製造業が甦った10の理由」)。竹中平蔵・経済財政・金融担当大臣は「銀行の不良債権が減った」で、自らの施策を自画自賛しています。政府のお蔭などではなく、片山修・ジャーナリストが「決断責任をもった社長たち」で説いているように、各企業の地を這い、血を吐くような努力がようやく実ってきたのではないでしょうか。
日下公人・東京財団会長は「芸術になった日本製品」で、製造業の奥にあるのが、「文化製造力」であると分析しています。単純にモノを売る時代ではないのです。たとえば静かなエンジンを搭載した車、静かさを尊ぶ「日本人の心」のハード化が売れているのです。日本企業は中国の台頭を恐れることなく、経済行為というよりも芸術的行為を心がけていけばよいとのことです。
経済が好転すると、日本・日本人を肯定的に描く、あるいは論ずる日本・日本人論が雑誌上に復してきます。『ボイス』での対談「パクス・ヤポニカの文明力」(山折哲雄・国際日本文化研究センター所長×川勝平太・国際日本文化研究センター教授)が、まさしくそうです。両者も、日下と通低する日本観を有しています。ローマも、アメリカも、外に向かう「力の文明」です。一方、日本は「美の文明」で、ベクトルが内向きです。日本という「場」にひきつける“美の文明力”を涵養すべきですし、涵養できるはずなのです。このような論に接しますと、勇気づけられます。景気の“気”は、気分の“気”。今後もこのような論考が増加すれば、実際の経済活動もさらに活性化するに違いありません。
“美の文明力”どころではない問題もあります。『諸君!』の特集は、なんと「危うし日本の『読み』『書き』『脳力』」です。「大人の自信喪失と語学幻想を餌にした英会話ゴッコ導入が、子どもの日本語力を破壊」しているのです(藤原正彦・お茶の水大学教授×斎藤兆史・東京大学助教授「愚の愚の愚 英語早期教育」)。同誌は、斎藤環・精神科医と長山靖生・評論家の対談「『フリーター』と『引きこもり』への処方箋」をも掲載しています。「フリーター」は400万人、「ひきこもり」は100万人にも達しています。“キレる”“無気力な”若者が増加しているのです。景気が好転したところで、または“美の文明力”をもってしても解決できない深刻さが潜んでいます。
藤原正彦の専門は数論です。その専門から見ても、国語教育の迷走が今日の「国民的体質劣化」を招いたと映るとのことです(「国語力こそ国力である」『ボイス』)。精神的なものを尊ぶ風土が崩壊していると憂えています。最大問題が教育の混迷です。先の対談でも熱く論じていますが、彼によれば、中途半端な外国語教育、個性尊重教育が有害なのです。徹底した国語教育が必要ですし、「読書の復活」がなくてはならないのです。
ここで気づきました。日下、山折、川勝、そして藤原に共通するキーワードは、“日本への回帰”です。確かに、自らの社会・自らの制度に、もう少し日本・日本人らしさを求めるべきかもしれません。その過程で、若者や国語教育など諸問題解決へのアプローチ策を発見できるかもしれません。もちろん、バブル期のようには、傲慢になってはなりませんが…。
隣国とは協調したほうがよいに決まっています。しかし、中国とは経済的依存関係は深まっていますが、政治的には冷却化しています。笹島雅彦・日本国際問題研究所研究員(「尖閣上陸事件にみる中国ナショナリズム政治の手法」『中央公論』)によりますと、日中は「政冷経熱」にあると中国側要人も嘆いているとのことです。共産主義を放棄した中国共産党にとってナショナリズムが最後の正統性です。ときに反日の傾向を強めるでしょう。それに対抗して、日本側でも反中が強まることもありえます。それに前述の“日本への回帰”が重なるとどうなることでしょうか…。かかる心配は杞憂に終りますよう…。 (文中・敬称略) |